はじめに
こんにちは。プログラマ歴10年の tumo.jp です。
ダウンタウンの松本人志氏は、その著書の中で「おもしろい人間の三大条件はネクラ、貧乏、女好き」と語っていました。*1
その内容を簡潔にまとめると以下の通りです。
- 性格がネクラで、夜中に一人で突拍子もないことを考えるような人間には、面白いやつが多い
- 貧乏な家庭で育った人間は、幼少時代におもちゃなどを買ってもらえなかったことで頭の中で楽しいことを考える習慣が身につき、想像力が豊かになる
- 女好きなやつは、女性の気を惹くためにしゃべりが達者になる
とても興味深い指摘だと思います。
さて、本日は私なりに考えた「プログラマに向いている人の三大条件は何なのか」について紹介してみたいと思います。
プログラマに向いている人の三大条件
私の考える「プログラマに向いている人の三大条件」はこんな感じです。
- ネクラ
- おしゃべり
- 努力家
このうち「ネクラ」や「努力家」については、世間の持つプログラマ像のイメージ通りといったところでしょうか。 しかし「おしゃべり」に関しては、意外に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
ネクラ
プログラマという人種は、ほとんどの場合「自分一人の時間が好き = 孤独が好き」です。
少なくとも孤独が苦ではありません。
世の中には「誰かと話してないと落ち着かないよう」なんて人がいますが、プログラマの前でこんなことを言うと、目の前で爆竹を投げられたハトくらい目が点になります。
ではなぜプログラマは孤独が好きなのでしょうか?
簡単に言うと、プログラムの世界は「本質的にコントローラブル(制御可能)」だからだと思います。
わかりやすい例で言うと、多くのプログラマはゲームが好きです。
ゲームは本質的にコントローラブルです。自分の操作した通りにキャラクタが動き、その気になればレベル10でカンダタ(強敵)に戦いを挑み、勇敢に戦って全滅することだってできます。ゲームのキャラはどんな理不尽な仕打ちを受けても文句を言いません。
もちろんゲームの種類によっては、一定の確率でマイナスイベントがランダム発生したり、ゲームの不具合で思ったように動作しないなんてこともあります。
しかし、本質的にコントローラブルである点に変わりはありません。好きな時間に始めて、好きな時間に終わることができます。
プログラマというのは、こういう「コントローラブルなもの」が好きなのです。
しかし残念なことですが、世の中というのは本質的にアンコントローラブル(制御不可能)です。世間というのは甘くない。
小学校で遊びを始めると、必ずルールを破るやつがいます。機嫌を損ねて帰るやつがいます。じゃんけんをすれば後出しをするやつがいます。「勝ったら100円くれる」と言ったのに、3回勝っても100円くれません。
ビジネスの世界も概ね同じです。私もそんなに詳しいわけではありませんが、営業という職種の人間は、実はお客様と戦っているのではなく、常に理不尽と戦っているのだと聞いています。
もちろんプログラマの世界も、完全にコントローラブルではありません。が、比較的(少なくとも営業に比べれば)コントローラブルな世界です。
最終的な成果物はシステムなので、お客様や上司がどんな理不尽を言っても、成果物であるシステムを盾に理屈で戦うことができます。
そしてシステムだけは本質的にコントローラブルなので、自分の努力次第でかなりのレベルで制御することが可能です。
ただし、その分システムに関してはコツコツと勉強しなければなりません。
システムを制御できないようでは、もはやプログラマに価値なんてありませんからね。
そういうわけで、他人と接するのが好きで、理不尽な世界を賢く立ち回り、そこに損得があれば得の側に回れるタイプの人間(つまり社交的な人間)は、営業に向いています。
反対に他人と接するのが苦手で、理不尽な世界ではうまく立ち回れず、いつも損ばかりするので孤独を選びがちな人間(つまり内向的な人間 = ネクラ)は、プログラマに向いているといえるでしょう。
おしゃべり
これは私の予想なのですが、世間の人はプログラマに対して「寡黙で謙虚で物静かな人間」という印象を持っているような気がします。
これはある程度は当たっているのですが、実は間違いです。
プログラマは意外にも話し好きが多いです。
前述の通り、基本的に他人と接するのが苦手なので、簡単には心を開きません。しかし、ひとたび心を開いて、しかも自分の好きなことについて語りだすと、もう止まらない、みたいな人間が多いです。
ここまでくると「ああなるほどね」と思ってもらえるでしょうか。そうです、要はプログラマは「オタク」なのです。
誤解しないでいただきたいのは、「話し好き」といっても、決して「話し上手」ではないという点です。
もちろん中にはある程度話し上手な(というか説明が上手な)プログラマもいますが、多くの場合それは後天的な努力によって身につけた能力です。プログラマというのは、原則として話が上手な人ではないです。
最近ではもう有名な定説として「話し上手は聞き上手」という言葉があります。
これは私の肌感ですが、プログラマが100人いたら、たぶん聞き上手なプログラマは1人もいません。聞き上手なプログラマがいたと思ったら、それはたぶん幻です。それくらい聞き上手なプログラマというのはレアなのです。
そもそも他人と接するのが苦手なだけであれば、事務だったり工場の不良品点検だったりトラックの運転手だったりと、職業の選択肢はそれなりにあります。
では、プログラマはなぜプログラマを選んだのでしょうか?
結論から言うと、プログラマというのはある意味で傲慢なのです。
プログラマというのは他人と接するのが苦手で、学生時代はうまく生きられなかったにも関わらず、どうにか世の中を制御してやりたいと思っているのです。
この現実世界で、レベル20まで成長してヤマタノオロチ(かなりの強敵)に戦いを挑み、見事に勝ってやろうという志を持った人間が目指す職業なのです。
そんな人間が聞き上手なわけがありません。
彼らは自分の話を聞いてもらいたいのです。自分がこんな風にシステムを操って、こんな風に世の中をコントロールしてやったぜと語りたいのです。そのために日夜コツコツとシステムの勉強をして、努力を続けているのです。
そういうわけで、プログラマというのはおしゃべりが多いです。しかし、決して話し上手では(そして間違っても聞き上手では)ありません。
努力家
地球という星で30年くらい生きていると、「努力って結構報われないんだな」と気づくことがあります。
つまり才能がないと永遠に花は咲かない、ということです。スポーツ選手とか、ミュージシャンとか、営業なんかも一部その傾向があるのではないかと思います。
しかし、世の中には比較的努力が報われやすい世界があります。才能がなくても、努力次第である程度大成しうる世界があります。それがプログラマの世界です。
営業の世界では、クライアントとの打ち合わせの5分前までタバコを吸って、ろくすっぽ資料も用意せず、30分間バーっと話してポンと契約をとってくる、みたいな化け物セールスマンという人間がいるらしいです。
しかし、プログラマの世界では、タバコを吸っていてもシステムは完成しません。またプログラミング能力や技術の知識なしに、圧倒的なパフォーマンスを出すことも不可能です。
稀にうちの会社の〇〇さんはオフィスで全然プログラムを書かないけれど、仕事ができて年収1000万超えだよ! みたいな話を聞くことはあります。
このカラクリは、主に以下の2パターンです。
その人はIT関係の人であって、プログラマではない
要はプロジェクト管理とかマネジメントが主の仕事で、人間力や地頭などでで勝負ができるフィールドで戦っている人です。
この人はIT関係の人ではありますが、プログラマではありません。プログラムが好きすぎて、努力を努力と思っていない
これは空気を吸うように家(プライベート)でプログラムを書いている人です。たぶん夢の中でもプログラムを書いています。そして地頭もよいです。
こういう人は、あまり会社で姿を見なくても、僅かな時間で圧倒的なパフォーマンスを出すことが可能です。
しかし、普通の人間が真似をすることはできません。あまり参考にしない方がよいでしょう。
プログラマというのは、その名の通りプログラミング能力を武器として戦う職業です。
そして、プログラミング能力というのは(少なくとも2020年時点では)努力次第でかなりの差をつけることができます。
コツコツと努力をすれば、能力をリニアに(線形に)向上させることが可能で、しかもその能力が対価として返ってきます。(要は報われるということです - ※)
※補足
営業だって努力が報われるぞ! という指摘もあるかもしれません。例えばプレゼンの練習をしたり、見栄えの良い資料を作ったり。
しかしこれは予想も含まれますが、営業にとってプレゼンの上手さとか資料の見栄えは本質ではありません。あくまで補完的な能力です。さらに一定レベルに達すれば頭打ち、という類のものだと思います。
一方プログラマにとってのプログラミング能力というのは、基本的に限界がありません。書けば書くほど上達し、アウトプットがあればあるほど評価は高まります。
個人的には、そこが一番の違いだと思っています。
そういうわけで、コツコツと地味な努力を続けられる人は、プログラマに向いていると言えるでしょう。
反対に、できるだけ才能で勝負したい、基本的にプライベートで努力なんてしたくない、という人は、あまり向いていないと言えます。
さいごに
以上が私の考える「プログラマに向いている人の三大条件」でした。
念のためですが、所詮はイチ個人によるイチ意見なので、真実であるかどうかは1ミリも保証しません。何かの参考になりましたら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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*1:『遺書』 1994年